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学校の近況
俊傑会より

元教頭 入子 祐三

泉友会の皆さんにとって忘れられないことは何だろうか
元教頭 入子 祐三

 前泉友会会長の小島豊彦様には、長い間「泉友会」の運営にご苦労頂き誠に有難うございました。ご退任後も泉友会を見守りご支援下さいますようお願い申し上げます。
 新会長 岡 正博様には、佳き先輩として「泉友会」の充実発展にご尽力下さることを期待しております。実は、新会長の岡さんは、私が一、二年生の時に担任した子どもでした。立派に成人されて世話好きな人柄で温厚な人物です。ご支援協力の程、元担任の立場からお願いする次第です。早速、泉友会会報に附属小学校時代の思い出を綴る様に注文されましたので駄文を寄せることにしました。
 今、東京学芸大学附属大泉小学校と呼ばれている学校は、元は大泉師範学校の附属小学校と言われました。師範学校の校舎は、附属中学校のグラウンドの処に有りました。師範学校の卒業生の同窓生の会を、「大泉会」(たいせんかい)と言っていました。大泉師範の先輩方には実力者が多く、東京都の教育を支えて活躍しました。
 ご存知でしょうか、附属小学校の校庭の西側道路沿いの植え込みの中に、大泉師範学校の発祥記念碑が有ります。いつまでも「大泉教育」の伝統精神を残したいと言う大泉会の同窓生の心意気で造られたものです。丁度、学芸大学同窓会の母体校になり「大泉会」を解散することもあって、私が教頭時代に造って頂いたものです。教育界に清風を送り教育の振興に寄与した「大泉教育」が、附属小学校に受け継がれていくことを信じてのことです。大泉会の先輩として、中島彦吉先生、堀山欽哉先生、川口哲弥先生、岩沢 清先生、都丸 修先生、高橋寿朗先生、本間富治先生などの顔が浮かびます。附属の卒業生(泉友会)の年長の方々には忘れられない先生ばかりかと思います。
 時が流れ、学制改革によって、東京学芸大学に引き継がれ、今は亡き、鈴木昭和先生、高橋壮之先生、野田一郎先生、などが「大泉の教育」を受け継いでくれました。その後も「大泉の教育」は、昭和から平成へと流れ、伝統として受け継がれています。
 師範学校の同窓会で「大泉」を使っていましたので、附属大泉小学校の卒業生の同窓会を「泉友会」と呼ぶことにしたのです。奥山則男さん、高橋寿朗先生は、第1回の卒業生とお聞きしています。「泉友会」の卒業生は、日本のみならず世界で活躍しているのです。
 四季折々の歌によって培われた“絆”が堅く結ばれ、温かく友情ある会になっていることは喜ばしいことと思っています。
 「お手手つないでバラの門・・・くぐれば今日から一年生・・・」に始まって、和楽会の歌。富浦臨海の歌。「二階の窓から今朝も見た・・・しっかり組んだ手のひらの・・・」卒業の歌。まで忘れられない、懐かしい思い出になって、走馬灯のように浮かんで来るものと思います。次に忘れられないのが、富浦の臨海学校かなと思います。「エーンヤ コーラ」「エーンヤ コーラ」の掛け声を掛けあっての大遠泳に挑戦、心身を鍛えあったことなど、貴重な思い出になっていることと思います。私は、命がけで取り組んだ臨海学校生活の意義・大切さが、今も継続されていることに誇りをもっています。
 泉友会の皆さんは、素晴らしい「大泉の教育」を受けていることを忘れずに、自信・勇気を持って、それぞれの道を進んで欲しいと思っています。


八田 洋彌

菊の子「富浦臨海生活」の歌
八田 洋彌先生

 私が「附属大泉小学校」に着任したのは昭和40年、今から50年前のことでした。最初、附属大泉小学校からのお誘いを頂いた時、私は大変嬉しく思いました。当時、私は板橋区公立小学校の教員として7年目を迎える時でしたが、何の迷いもなくこのお誘いに応じました。それは学生時代に教育実習を附属大泉小学校で体験させて頂き、とても楽しい思い出があったからです。
 着任した最初の年度は一年生の担任を命じられました。これまで低学年を受け持った経験は有りませんでした。それが突然の一年生の担任を言い渡され、驚きと不安の気持ちでした。一年生とどのように付き合ったら良いのだろうか。しかし、実際に一年生を受け持って子ども達の素直さと明るさに、かえって励まされた思いでした。このようにしてスタートした生活の中で、私にとって心に大きく残っているのは、夏の富浦臨海生活でした。
 これまで公立小学校に勤務していた時にも臨海生活を経験してきました。しかし、その時は浜辺で海の波とたわむれて遊ぶという臨海生活でした。しかし大泉小学校の臨海生活は海で泳ぐことを学び、遠泳という泳ぎを身に付けるという目的が明確にあり、それが実現されている事に心打たれました。
 最初の一年目は、五年生と臨海生活を共にしました。五年生の遠泳の姿をボートで付き添い見つめました。富浦の波に乗って悠々と一時間近く泳ぐ子ども達の姿を見て、その粘り強さと逞しさに感動したものでした。
 翌年、五年生の担任を命ぜられました。そして夏の富浦で、受け持った子ども達の粘り強さと逞しさを改めて確認させてもらいました。
 二学期になった時、富浦生活の思い出を子ども達と語り合いました。その中で、運動会や菊まつりの行事の歌はあるけど、富浦臨海生活の歌は無い事に気付いたのです。そして、「来年、富浦に行った時にみんなでうたう歌をつくろうよ。」ということになり、子ども達とどんな歌にしようかと、歌詞にしたい言葉を出し合いました。それを「遠泳の日の朝の海」「遠泳の時」「遠泳の終わった日の夕暮の海」と三つの場面に構成して歌詞にしました。
 そして音楽の廣瀬先生のお願いして曲を付けて頂きました。こうして「富浦臨海生活の歌」ができたのでした。


松村 昌俊

こども達から学んだこと
松村 昌俊

 私は昭和42年9月から昭和59年3月迄凡そ18年弱、附属小学校にお世話になりました。着任が2学期でしたが、担任した「2うめ」の子どもは本当に明るく、素直でした。教室の前の中庭では、中休み・給食後等の時間には、低学年の子ども達で溢れかえります。雲てい・登り棒・シーソー或いはボール遊び・追いかけっこ等の子らが入り混じって遊び、全く大きな怪我のないのが不思議な位でした。
 然し、時には高学年の子らに大運動場を追い出された中学年の子らが中庭にやって来ることも有り、遊び場を取られた低学年の子が担任に「ご注進」にやって来ます。すぐに担任が出て行き、話し合いで円満解決を図ったものです。その後、代表委員会で校庭の使い方が議題に上り、低中高の遊ぶ場所が区分されました。広い場所を取り過ぎず、危険を伴わない遊び等を工夫することも決められました。

【子ども達から学んだこと】

(1)2年担任の時の最後のプールでの出来事です。Tさんは、どうしても七級に進みたくてクロールで頑張っていました。「息継ぎ」が出来ずゴール前でいつも立ってしまいます。終了間際に彼女が泣きそうな顔で「どうしたら合格できるか」と相談に来ました。そこで「苦しくなったら立つ前に、思い切って水中で息を吐いて、手を2回位掻いてごらん」と助言しました。すると意を決した彼女が挑戦し、途中立つこともなく泳ぎ切り見事合格しました。水を飲んだに違いない彼女の満足そうな笑顔が素敵でした。小さい2年生でも「目標達成」のためには、これだけの事が出来るのだと学びました。

(2)1年を担任したある日の「帰りの会」の出来事です。突然K君の行動に対する不満の意見が出てきました。「給食着の畳み方が遅いので、良い遊び場を他の組の子に取られてしまう」との事でした。遊びたい子ども達にとっては大問題です。同調する子も多くいて、このままだと「K君いじめになり兼ねない、さてどうしたものか」と思案していた時に隣のHさんが「K君は畳み方が遅いのではなく、丁寧なんだよ」と視点を変えた意見を出してくれました。さっそく全員で給食袋の点検をしました。確かにK君はお母さんのアイロン掛け通りに畳んでいました。一方不満を述べた子たちは、ただ丸めて入れただけでクシャクシャになっていました。皆でK君を見習って畳み直しました。「丁寧な畳み方のK君」の評価が定まり、いじめの心配は無くなりました。それにつけても「一年生の鋭い観察力」に助けられたことで、担任としてもっと児童理解を深める必要性を痛感させられました。低学年を担任することで至らない自分に気付き、その後の教員生活での「学び」の原点になったように思います。

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