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学校の近況
俊傑会より

入子 祐三 先生

入子 祐三先生

30回生同期会のお知らせが届きました。案内文には、かつて「菊の子」と呼ばれた私たちも早50歳になりました。これを機に同期会を開催するので、より多くの集まりをとの呼び掛けでした。幹事の連絡責任者は、同級で結婚したおしどり夫婦のK君からでした。
当日は、息子が同学年にいたので当然の事ながら親子で出席する事になり、会場に到着すると懐かしい顔が迎えてくれました。自己紹介をして握手を求める顔また顔、小学生時代の面影が次第に思い起こされ感激の会話が広がりました。

約70名の参加者で会場はごったがえしになり、開会して乾杯の発声をして欲しいと司会者にうながされてマイクを手に挨拶をしました。
お会いできた喜びと感謝を述べ、参会の皆さんの健康と発展を祈念して声高らかに乾杯をしました。その際に卒業時の担任が開進三小の校長を入子→菊池先生→酒井先生と三代連続して15年間務めた珍しいケースを紹介しました。なお清水先生も練馬区の校長をされて、四人揃って練馬区で定年を迎えたことを報告しました。

懇談の時間になっての話題は、小学校時代の思い出話が次から次へと展開されました。
富浦の臨海生活が一番印象に残っていると異口同音に言われました。
・バケツリレーで水をバス道路から井戸に汲み入れた。こと、
・雨が降って寮に雨漏りがして雑巾バケツを置いて大騒ぎをした。こと、
・蚊帳を吊って寝たこと、きもだめし大会のこと、
・雨で海に出られない時の「室内オリンピック」の様子など

が語られました。

ここで「室内オリンピック」の内幕を紹介すると、
「やり投げ」=こよりを作って投げさせ飛んだ距離で順位を決める。
「円盤投げ」=画用紙を円形に切って円盤に見立てて投げさせ距離を競う。
「砲丸投げ」=折り紙で風船を折って空気をいれ、肩の上から投げて距離を競う。
「水泳競技」=画用紙で人の形を切り抜き(平泳ぎ、クロール、背泳ぎの格好に手足を折りまげて作る)長い食卓上を団扇であおいで走らせてゴールさせる。あおぎが強くてテーブルから落ちたら失格というもの。
「マラソン」=今着ているものを脱いで出来るだけ長くなるように並べて、スタート地点より遠くまで並べた者が勝ちと決めた。

などいろいろなアイデアで子どもたちを楽しませる工夫をしたのです。

「“室内オリンピック”の種目をよく考えましたね、思い出に残っていますよ」 「先生方が一番楽しんでいたんじゃあないですか」 「マラソンのときに、まだ脱ぐものがあるぞ、勇気を出して『脱げ!脱げ!』と叫んだのは先生だったですよ」 こんな笑い話もしました。  卒業時の担任だけでなく下学年時代の先生方(長谷川順義先生・渡辺先生)も招待されて賑やかになりました。とりわけ、俊傑会でもお目にかかれなかった橘瞭子(渡辺)先生にお会いできて大変嬉しく思いました。
卒業時の各担任の挨拶では、菊池先生のユーモア溢れる挨拶か拍手喝采でした。また、酒井先生の幼稚園長としての教育実践の姿が紹介され、幼児の躾の大切さや、家庭教育の必要が語られました。なお、清水先生からは自作の俳句が披露され生涯学習の手本を示されました。  予約した時間がアット言う間になくなり名残惜しい感じでしたが、記念撮影をクラス単位にして再会を約束し散会しました。
菊の園に学んだ卒業生の各方面で活躍する姿に接し頼もしく思いました。教え子たちに元気を貰って、家路に着くことが出来ました。教師としての喜びを感じる一日でした。

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酒井 繁典 先生

酒井 繁典先生

私が菊の園に赴任したのは、昭和39年4月東京オリンピックの年でした。以来25年間、菊の子達と生活し沢山の思い出を作りました。
その中で現在も受け継がれている富浦臨海学校の体制と大遠泳コース誕生までの様子を書きます。

赴任の年は豊島小が小金井に移転のため大泉に児童301名を受け入れました。大泉は急に膨れあがり2学級から3学級編成となり梅組が誕生。2、5、6年は普通学級のゆり組も誕生しました。
私は体育ですので早速夏の臨海をどうするかが課題でした。5、6年生が4学級になったので寮では収容できません。場所をどこにするか各地の情報を集め外房の天津の旅館を使って学年毎に実施することにしました。たまたま台風の影響を受け、波荒々危険な状態で水泳指導も十分にできませんでした。外房はダメという意見が強く、検討の結果、富浦寮を工夫して使えないか考えました。そこで寮の廊下も部屋として使い5、6年を男女別に4期に分けて実施すれば、何とかできると判断し、その翌年40年からこの形で実施しています。この年から水泳班と生活班を一緒にし6班編成で遠泳中心の臨海学校がスタートしたのです。

最初の頃は、亀の子島をまわってくる90分の大遠泳でしたが、ある年、潮の流れが強く全員が島をまわれず三つに隊形が分断し、隊形を整えるのが大変でした。この苦い体験から距離は長いが潮に乗って進める長岡コースにしようと提案されたのが、若くして故人となった水泳の達人鈴木昭和先生でした。それが、現在まで続いている大遠泳(60分)コースの誕生なのです。

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原 健爾 先生

原 健爾先生

昭和三十六年に、原田修一先生と一緒に赴任しました。大変うれしかったことは、松村昌俊先生に再会できたことです。大学三年の教育実習が付属豊島小で五年の福田梅生先生の学級に配属され、同じ学級で四人が仲良く勉強に励んだ仲間だったからです。さて伝統ある行事の一つに、春は青葉展、秋は紅葉展がありました。作品を壁紙に貼り、廊下や教室に展示しました。ある年から「菊の子展」となり菊祭週間になりました。初めての菊の子展は、平面作品展示版の設計製図をし注文制作をしました。立体作品は、テーブルや床を活用しました。案内状は当時流行のワープロで原稿を作り、学校で印刷しました。ある年から全学年に対応できる大きな陶芸窯が設置され、色鮮やかな楽焼(低・中学年)や深みのある美しい本焼(高学年)の作品が焼成できるようになりました。

以上の行事や授業のための設備等の具現化は、校長先生・副校長先生のご尽力のお陰様であり、又、実施では全職員のご協力の賜物であり、未だに心から感謝致しております。

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中島 紀子 先生

中島 紀子先生

教員としての第一歩を踏み出したのが「菊の園」で昭和35年でした。それから十数年を過ごしたのですが、当初は、1学年2学級で全校12学級のこぢんまりした規模でした。木造校舎が鉄筋の校舎になり、1学年3学級更に帰国子女の学級が増え、現在の「菊の園」に至る過程を共に歩みました。

ある年に、例年行われていた和楽会を今年も行うかと教員一同話し合ったことがありました。都民農園までの徒歩のコースが次第に車で混雑し、児童の安全管理の上から和楽会を廃止した方が良いとの意見が多かったように思います。その時、卒業の歌「二階の窓から」の歌詞に「みんなで行った和楽会」「しっかり組んだ手のひらの……」とあることが指摘されました。直ちに和楽会は続行、安全管理をどうするかという意見交換が始まったのでした。

生活目標として「菊の園の子供です。日本をになう子供です。世界に伸びる子供です。」と掲げたのは、昭和40年ころだったと記憶しています。その文言どおり菊の園を巣立っていった多くの子供たちが、更に世界へと飛翔していく姿を折りにふれて目にします。泉友会の皆さんのますますの発展を期待しています。

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